003:眼球譚(初稿)



回想形式の物語と、作者の独白と解説からなる二部構成。


第一部 物語 

1920年代、フランス。

16歳の「私」は、遠縁関係の同い年の少女「シモーヌ」と出会い、密かに性的な遊びを共有する関係を結ぶ。シモーヌが猫用のミルクの皿の上に座るのを見せつけることから始まったふたりの悪ふざけは、挿入をせずにさまざまなやりかたで恥をさらし合う。冒涜的で、痛みや汚らしさを伴いエスカレートしていく。精液と尿をかけあう、卵や泥を浴びる、ゆで玉子を性器に入れる、自慰を見せ合うなどする。 

あるとき、ふたりが草原で自慰にふけっていたとき、同級生の少女「マルセル」が偶然通りかかる。仲間うちでもとびきりウブなマルセルを、発情状態の私とシモーヌはレイプしてしまう。その事件を契機にふたりは他者を巻きこみはじめる。親にバレても全く気にせず、シモーヌの実家に友人たちを呼び、踊り、酒や血を浴びながら全裸でパーティをしたりもする。騙されてそのパーティに連れてこられたマルセルは恥ずかしさのあまり衣装タンスに逃げ込むが、その中で耐えきれずオナニーしているのを私に見つかってしまう。はしゃぎすぎて傷を負い血まみれになった私の姿を見たマルセルは恐怖で錯乱し、それ以来情緒不安定になり、精神病院に隔離される。 

それからも私とシモーヌは挿入をしない独特なセックスフレンドの関係を続けるが、欲情のネタはいつも不在のマルセルだった。奇妙な三角関係におぼれきったふたりは、ついに精神病院にいるマルセルを奪還するためピストルと金を盗み家出する。ガケに建てられた城のような精神病院で、鉄格子をノコギリで破壊し、やっと再会したマルセルは痴呆化してしまっていた。かつての清純なマジメ少女の面影はなく、記憶をなくした虚ろで淫らな人形になり果て、たまらなく退廃的な美しさを得たマルセルに私とシモーヌは激しく興奮し、三人はお互いをグチャグチャに愛撫しまくる。

 痴呆化したマルセルは常に意識混濁状態で、私を死刑執行人の僧侶と思い込んでいた。それはシモーヌの実家での全裸パーティのときに見た、血まみれの私の姿がトラウマになって生み出した妄想だった。私たちはマルセルを連れてシモーヌの実家に戻る。マルセルは全裸パーティのときに逃げ込んだあの衣装タンスを見つけると、発狂してタンスの中で首吊り自殺してしまう。マルセルは死んでも眼を見開いたままだった。その悲惨な光景は残されたふたりに最悪で最高の欲情をもたらし、死体の傍で私とシモーヌは初めて挿入しセックスする。 

警察をまくためにふたりは逃亡する。スペインのマドリードには、かねてからシモーヌを愛人にしたがっている「エドモンド卿」という変態貴族がいた。シモーヌと私はエドモンド卿の世話になりながら屋外露出や拘束やスカトロを含む各種の変態プレイを演じ、それをネタにエドモンド卿がオナニーを楽しむという狂った生活が始まった。 

彼らは行く先々で背徳的で危険なエロ事件を起こしていった。闘牛場で仕留められた牛の睾丸をもらったシモーヌは、闘牛士が牛に突き殺されている前で、眼球に似た牛の睾丸を女性器に挿入して絶頂に達する。聖人の墓に放尿し、懺悔するフリをして神父を誘い出し、教会の中でレイプし、腹上死させる。神父も眼を開いたまま死んだ、マルセルと同じように。三人は神父の眼球を引きずり出して残酷なセックスの道具に冒涜的な快楽をむさぼった。 

その後、村人に変装した三人は、ヨットに乗ってどこかへ船出するのだった。 


第二部 暗合 

第一部の一〇分の一ほどの短さで、筆名オーシュ卿の由来や登場人物のモデルについて、また作者の思想に根底的な影響を与えた出来事、特に盲人で身体不随の父親と、狂人の母親の思い出を通して、第一部を支配している強迫的なイメージの源泉を作者みずから紐解いていく。 


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 虚構とその解説という二重構成によって、男女や善悪、美醜、愛憎、聖俗など相反する要素が反転し同化する強烈な嗜好を描いている。

 装飾的かつ断定的で、予感や余韻がスッパリ抜けている独特の文体だ。そして内容は冗談とも悪夢とも魔術の儀式ともつかない破天荒な悪ノリエロプレイの連打で、呆れるほど豊かな快楽の追求がある。(だが登場人物はただの無法者ではなく、恥じらい深い部分も描写されているのが緻密だ)。凄まじい。そして同時に拒絶されているのは、ベッドで行われる、愛し合うカップルの、想いを確かめ合う愛情表現としての幸福なセックスだ。 

そうした愛への拒絶について、第二部での引き裂かれた家族のイメージから明かされる。が、個人的にはこの第二部が邪魔だと思った。 

シモーヌやマルセルのモデルや作者の父母のイメージは強烈だが、それによって第一部が新しい解釈によって立ち上がるわけでもなく謎がとけるわけでもないので、二部構成の効果がなにも出ていない。明かされる背徳嗜好や、家族の歪みと他者との共犯関係への執着はすでに第一部のなかに充満していて、あとから意味合いを規定されてイラついた。何より第二部はかなり啓蒙的なのがよくないと思う。第一部とは別物だ。 

第一部は意味を超えている。言葉によってこしらえた場面と像のパワーだけで勝負している。メッセージとかテーマとか教訓に頼っていない。その態度は虚構をつくるものとして見習わなくてはならないと思った。かかれている以上のことは読者が勝手にわかればいいからだ。

、、、そのかわり、悪趣味でケバケバしい火花のような文章はいくつかの虚構装置でまとめられている。球体はその代表格だ、眼球、睾丸、玉子。そして箱だ、衣装タンスと告解室。さらに海。シモーヌと私は海岸で出会い、ラストは船出する。これらの虚構装置はともに内側と外側を区切るもの、あるいは通路だ。そしてシモーヌの女性器はそのすべての属性をもたらされている。見事な手さばき。 

第二部にはこういう芸がなく、ただの独白だ。せめて「あとがき」にしてほしかった。眼球譚の第二部は余計なものの代名詞にしたいくらいだ。


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 思い出したもの:

『まるいもの』

あるとき部屋に謎の球体が出現し、それをだいていると人々はボケになっていく。



『建築家の腹』

 肥った建築家と、彼のつくるドーム形の建築物。 

背徳的で装飾華美な雰囲気も似ている。



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