010:センセイの鞄
三十代後半の大町月子は、同じ町に棲む70歳代の松本春綱と居酒屋で出会う。松本は月子の高校時代の国語教師だった。お互いをツキコさんとセンセイと呼び合う二人は居心地の良い酒飲み友達に。一年ほどをかけてふたりは接近し、恋愛関係になり3年後、ツキコはセンセイと死別する。
恋愛小説が、実際の恋愛とは全然別のものということがわかった。恋愛小説とは、外から与えられた役割があり、登場人物はその役割をまっとうするまえに放棄してしまうが、そのあとに新しい役割は与えられない、という構造の小説だ。
センセイとツキコの間には教師と生徒としての役割がまずあり、そこに断絶していた時間と、ふたりを役割通りに見ない居酒屋の店主サトルと、お互いに接近するほかの異性への嫉妬、家族との過去への憧れ、すれ違いとわずかな悪事の共有と秘密などの、あきらかに役割を対象化させるための契機を経て恋情が育まれる過程で、一線を越える。
ふたりは恋人になったあともセンセイとツキコさんと呼び合う。恋愛関係になってからこの呼び方は不自然だし、現実にこういうカップルが周りにいたらかなり奇妙だ。ふたりは男女の一線を越えたあともなぜか学生時代からの呼び名と関係を固持しているのであり、形式上は、恋愛関係よりも師弟関係のほうが上位にある。
これは少なくとも物語構造の上では、恋情がある役割分担と力関係によってなりたつことを示し、役割の消滅は破局を暗示することも教えている。お互いの家庭を破壊しないことが前提の不倫関係に似ている。あれこそ役割100%だ。僕はそういうやりかたを虚しいと思うが、少なくとも文学的には正しい。と作者は思っている。
その態度を端的に表すのは、センセイのいう、恋愛を前提としたお付き合いをしてください、という告白。作中ではセンセイというシャイでナイーブな人物描写として出てくるが、作者の小説家としての恋愛観に違いない。恋情は恋愛そのものが成立する直前に最大化するから、常に前提条件であるべきだ。物を捨てられないセンセイは、ツキコをいつまでも生徒のツキコとして扱おうとする。センセイにとって最期の拾い物はツキコだっただろう。もちろんそんなものは愛情ではない。小説家の職業倫理に忠実であるだけだ。
それほど作者は小説という形式を偏愛している。センセイのキャラクターが夏目漱石の「こころ」を強く意識しているばかりではなく、ミステリアスな構成や言葉遣いが周到にパロディされる(語られない「遺言」が象徴的だ。)さらに、ツキコはそうした自然主義的文体を口調として強調しながら演技するという一人称装置だ。「センセイの鞄」を読んだあとは、「こころ」が同性愛的な恋愛小説に思えるだろう。
句点、読点、鉤括弧、ひらがなと漢字の配分が複雑な間をつくっていて、リズムの誤読を許さない。読んでいるとやわらかい印象だが、かなり厳しい文体だ。 この作者の特徴は、物語を出来事ではなく呼吸で書いていくところだ。はあ、はい、ああ、などの感嘆詞も意図的に鉤括弧に入れて、緻密に呼吸をつくっている。中盤の落雷と島の民宿の夜だけ、ツキコのセリフが鉤括弧でなくわざわざ地の文で書かれている箇所がある。これはツキコが緊張で過呼吸ぎみになっているからだ。
物語の筋を要約してみるとわかるが、ストーリーは非常に甘く、抜けており、姑息な感じすらする人間による、都合のいい、自分にとって全然興味ない話だから、小説技法のことばかり考えてしまったのかもしれないが、自分には登場人物が言葉の檻の中に閉じ込められているような感じがした。
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