009:家族シネマ


主人公は園芸会社で働く20代後半の素美。

素美の家族はお互いを憎み合って長年別居状態だが、あるとき実験的なドキュドラマ映画に実名出演することになり、数年ぶりに集まり家族を演じる。カメラの前で演じることを通して断裂した家族が理解しあい絆が復活する、、、はずもなく、逆にむきだしの嫌悪感がひたすら増大するという拷問のような小説。だがこの際限ない憎悪の生産こそが「家族」なのだと妙に納得させられてしまう。

 素美の父はパチンコ店の支配人で、家族に優しいパパであろうとするがその裏には強い権威欲がある。最近リストラされて家長の自負を喪失し精神ガタガタ。妹と住んでいる。 

母は数年前に父に愛想をつかして弟を連れて家出し、水商売で働きながら愛人と住んでいる、いまは不動産で一発当てようとしている生涯現役オンナ。 

妹は小劇場で役者をしていたがなかなか売れないうちに若さを失いズルズルAV女優に落ち、いまでも諦めておらず今回の家族出演映画の話を勝手に決めてきた。思い通りにならないと暴れる。 

弟は高校まで秀才だったが大学デビューに失敗して逃避、母親にパラサイトして引きこもっている。テニスの素振りだけが生きがい。 

素美は一人暮らし。園芸会社のキャリアウーマンで経済的には立派に自立しているが家族を憎悪することで依存しており、恋人にも同僚にも自分にも愛着が持てない。要するにめちゃくちゃ疑ぐり深く、被害妄想的で、荒んでいる。 

妹が連れてきた映画のクルーたちは決まった脚本もないまま平和な家族を強引に演じさせ、素美は嫌々ながら誕生日やキャンプの場面を演じるが団欒らしいシーンにはとてもならず積年の不和が露見するだけ。一方で父母の実際の夫婦喧嘩をもとに作られた赤裸々なセリフのやりとりやアドリブがあったり、虚実入り混じりながら撮影中止と再開を繰り返す。 

素美は撮影のかたわら、恋人の池に愛想をつかしたり、花瓶のデザインを依頼した陶芸家の深見というジジイに口説かれ尻をポラロイドカメラで撮られたり、地方にある花の栽培場で働く知的障害者の青年を見たりする。そうした交流のすべてが不安と偽善とコミュニケーションのすれ違いに満ちて、そのたび他者に馴染めない素美のコンプレックスをあぶり出し、気持ち悪い。 

ラスト、映画撮影はキャンプのシーンの最中に雨が降り出し、ズブ濡れの家族は誰も監督の言うことをきかなくなり中断。 素美は唯一人間的に魅力を感じていた深見のジジイに会いに行くが、明らかに自分より格上の女が部屋に来ているところにでくわして失恋、深見の部屋に置き忘れた自分の腕時計を持って帰る。

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それが事実をもとにした物語であってもなくても「なぁ聞いてくれよ解るだろ」というスタンスの小説がある。愚痴だったり個人的なフラストレーションが超絶的な技巧で書かれていて、思わず読んでしまうが内容は「あるある」だというもの。僕はこういうものを読みたくも書きたくもない。客観視されておらず、作者が考えたことが書いてある小説はつまらない。

 家族シネマは、「あるある」になりがちな家族の愛憎みたいなテーマを客観するための仕掛けをこらした小説だ。 

一人称視点だが話し手がやさぐれているあまり、自らを突き放している独特のスタイル。他者の一挙手一投足に感情が刺激され溢れる割には、相手をどうしてやりたいという欲望が一切描かれないことに気づく。 

そして視線の多層化。映画撮影は家族を激しく様式化し、かつ深見のポラロイドカメラは素美の肉体をオブジェへと解放する。 そして提示されるテーマは理解とか自立とか超克とか諦めとか、さんざん擦り倒された言葉ではない。「折り合う」だ。この微妙な言葉を持ってきたところが凄い。そう言えば、人間はどうやって「折り合って」いるのだろうかと考えさせられる。 

この小説は10年くらい前にいちど読んでいたが、そのときは良さは全然わからなかった。

 

9/389