005:様々なる意匠
昭和三年。
当時、言論界を賑わせていた主要な言説・主義・形式・表現様式=「意匠」を扱い、作品ではなく言論=論者の構造に迫ろうとする。「一つの意匠をあまり信用しすぎないために、むしろあらゆる意匠を信用しようと努めた」と書かれる通り、各理論を比較したり、生活感覚や実作者といった「外部(裏側)」を持ち込み問い直す批評手法。
本来は個的かつ非意味的な経験であるはずの私たちの生を、理論として意味づけようする意思と圧力に批判を向ける。結末では一種のポップカルチャー論に着地する。
まとめ。
・批評は作品という抽象物を言葉で解説する、普遍的な情報の一種とされている。が、批評家もまた個人だということを忘れてはいないか。ボードレールのようなすぐれた批評家は、個的な体験と自覚に根ざした、生きた言葉で書いている。
・マルクス主義文学やプロレタリア文学は、政治と時代性に強く結びつき、社会運動の一環ともみられる。しかし、どんな思想や観念のための文学であっても、それが文学である以上、言葉を尽くして書くという政治的でも観念的でもない、個的で生々しい行為からできているのだ。
・一方、芸術は目的のためではなくただ美のためになされるべきと論じるものもいる。が、作家にとって芸術とは作ることそのものであり、生活と肉体だ。芸術は美の表現ではなく、人間の情熱の発露だ。純粋な美は美学のなかにしかない。
・象徴主義と呼ばれている作品は全然象徴的ではない。ポーやボードレールやマラルメが言葉を極めて厳しく選んでいるのは、ありのままの人間の姿を写実するためだろう。シンボルとは真逆のものだ。
・世界は個の集合だ。同じものも同じ経験もないはずなのに、個的な経験や身体的なリアリティは(普遍性、観念、美、象徴、記号などの)意匠を伴い、論理と意味づけの材料にされてしまう。そして社会的存在として生きる(大人になる)とは、きっとそういうことだろう。しかし芸術は意味づけを拒絶できるから価値があるのだ。
・だから美学や批評や象徴から自由で、ただ文学的なパワーだけで勝負している大衆文学をリスペクトしよう。
こういう世間で通用していることを大外から「そもそも論」で崩すやり方は、個人的にはしらけてしまう。 また「様々なる意匠」は後に書かれる「モオツァルト」や「作家の顔」のような具体性がないのと、比喩と修飾表現が入り組んでいるために、言いたいことがかなりわかりにくい。作者特有の細部へのトランス的なまでの感情移入の凄みが薄く、物足りない。
が、小林秀雄はカッコいい。
この作者の批評は全部そうだが、いくら論法が強引でも文体が極めて情熱的かつ詩的であり、読んでいて無理矢理加熱させられてしまう。意匠どもを片っ端から斬り捨て御免にしていく。
気になった言葉
「小説は問題の証明ではない。証明の可能性である。」
イマイチどういう意味なのかわからないのだが、その通りだと思った。 自分はこの言葉に背かずに小説を書こうと思う。
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