008:十九歳の地図


1970年代はじめのある年。10月。

予備校に通いながら住み込みの新聞配達で生活している19歳の「ぼく」には奇妙な趣味があった。新聞配達先を記録した手製の住宅地図を作り、その住人たちを観測していく。配達先でムカつくことがあるとその家にバツ印をつけ、地図に3バツがついた家に、公衆電話からイタズラ電話をかけるのだ。内容は新幹線爆破だったり出前の注文だったり右翼の脅迫を装ったり、デタラメ電話で鬱憤晴らしをしている。 

「ぼく」は新聞配達の社宅に住んでいる。汚いボロアパートだ。金がなくてひとり部屋には住めない。同じ部屋には紺野という30歳越えたオッさんが寝起きしている。年甲斐なく軽薄な感じの紺野は何かにつけて「かさぶただらけのマリアさま」と呼ぶ女性の話をする。紺野はどうやら彼女から金をもらっているらしいが、恋人か娼婦なのかヒモなのか、年はいくつなのか、もしくは本当に実在するのかすらわからない。同じ新聞配達員の斎藤は、ぼくのように予備校に通っている好青年だ。「ぼく」は紺野も斎藤ともどこか馴染めない。

「ぼく」は新聞を配りながら街をすり抜ける。暖かな家庭、夫婦喧嘩、賭事、悪ふざけ、嘘、愛想笑い、貧富の差をあらわすそれぞれの室内から他人の生活がいやおうなく覗けて、うんざりしたり嫉妬したりして疲れ、そのなかで何者にもなれない自分に焦り、苛立つ。予備校に行かず、地図を作りイタズラ電話をエスカレートさせていくなかで、ストレスが限界に達したぼくは20歳までに何かを為し、死ぬことを決める。

そんなとき紺野が「マリアさま」から自慢気に金をだまし取ってきた。テンション最高潮の紺野。ぼくは耐え切れなくなり、紺野の手帳から彼女の電話番号を盗み、電話をかけてしまう。電話に出た彼女は、「ゆるしてよ」「私は何度死んでも生きてるのよ」と意味不明なことを嘆き続ける。それを聞いた僕はパニックになり、手当たり次第にデタラメ電話をかけ続けるが、いつのまにか涙を流している。

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この小説には三つの重要な空間がある。

まず、新聞配達の社宅。汗や精液が染みついて汚く、狭い、臭い、そして寒くて凍えそうだ。小説はこの暗い部屋の描写でいきなり始まる。かなりキツい。ここには厄介な他者がいる。無能なくせに上手く女と交流する紺野と、屈託無く社会に馴染んでいく予備校生の斎藤。「ぼく」には軽蔑と羨望の混じった複雑な感情がある。それらがひしめく寝床であり職場。

もう一つは街。生活臭としがらみ、「社会のシステムに上手く引っかかっている奴ら」の、嘘だらけの場所。しかし自分の部屋を持たない僕は、自転車に乗って街を走り回り新聞配達をしている時間だけ、自分ひとりでいられる。世界に失望して鬱屈しまくっているぼくが、素直な少年に戻る。配達中、「ぼくは荒い息を吐いて走っているぼく自身が好きで、」という部分があり、ここは泣ける。

そして電話ボックス。ぼくは地図を作ることで神になり、電話ボックスで民衆に天罰を与えている。この透明な箱はぼくが一方的に暴力衝動を解放する場所であり、かつ匿名の別人になれる場だ。しかしその演技は社会にわずからおののきを与えるだけで返事はなく、ただ、ぼくが孤独で非力であることをあらわにしていく、徹底して親の欠如したこの主人公にとって、電話は甘えと自傷の代替行為。 ラストシーン近く、ぼくは受話器の向こうの「マリアさま」に、お前は騙されている、と言い続ける。すると彼女は突然嘆きはじめ、死ねないと叫び、意味不明な赦しをこう。絶対安全だったはずの電話ボックスは、マリアさまの悲鳴にさらされる拷問部屋として裏返ってしまう。そして、それは他者がぼくにたぶん「本当のこと」を告解した初めての瞬間だったからこそ、スリリングで感動的だ。

 これはまっすぐな青春小説だ。未熟な個人が社会と他者からの承認を渇望し、それが歪んだ形で達成される物語だからだ。 

そして、中上健次が路上の電話ボックスに託した切実さと怖さは、もちろんいまのTwitterやFacebookにはない。ただ、いまでも誰もが透明な箱のなかで決して他者に届くことのない虚ろな演技をしつづけているのかもしれない。


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