007:さざなみ軍記
寿永二年ー1183年。
源氏の台頭により没落してゆく平家の、若い武者の手記を現代語訳したという形式をとり、その時代を描く。 物語は約9ヶ月にわたり、平家が都を追われ地方に逃げのびていく過程だ。行く先々の土地で戦や掠奪があり、奮闘しつつも少しづつ戦力を削がれ衰弱していく平家の有様は読んでいて結構しんどい。
また、これはまだ10代前半と思われるあどけない武者が成長していく物語でもある。はじめ主人公は衰弱していく平家の悪あがきを見苦しいと感じ、自分たちが滅びることはもう運命だと妙に達観していた。戦から脱走をくわだてたりもする。しかし、覚丹や宮地小次郎といった屈強な先輩の武士に憧れ、学び、信頼していた味方の戦死と淡い恋愛などを経て、やがて小さな軍を率いる将軍に育っていく。それはこの時代にとって生きることは戦って殺すことと不可分で、ほかの方法などないという認識を受け入れることであり、戦争の当事者になっていく意識の変化だ。
だからこの小説はめちゃくちゃ怖いことを書いているのだが、テーマは戦争の賛美とか否定ではない。戦時中にも人間の誇りや美意識はまったく損なわれずに息づくのだという切ない実感を、あらゆる色や音に言葉を配って描写していく。武者の装備品は艶っぽく、四季を彩る景色の描写は歌のようだ。ボロボロの白黒フィルムの戦争映画とは違う、絢爛な絵巻物のなかの戦争。そしてそれは、僕たちの住む有機ELディスプレイの世界の色合いとももちろん違うからこそ、遠くはかない。 平家が滅びることを知っている読者は、手記が途切れたときが、すなわち主人公の死であることを予感しながら読む。とても悲しい読書だ。
この小説は文体実験が満載だ。歴史に埋もれた架空の戦記の現代語訳という手の込んだ形式によって平家物語のいわば並行世界を書いている。
また、主人公の手記の文体そのものを洗練させることで彼の精神的な成長を描くという見事な表現手法を用いている。
さらに、主人公が戦人としての誇りを身につけはじめたころに、もっとも憧れていた最強の武士である泉寺の覚丹が「寿永記」という平家の歴史を執筆しはじめ、戦記がいきなり増える。といっても「寿永記」の中身はほぼ明かされない。覚丹が毎晩黙々と「別の歴史」を書いている姿が手記のなかに登場するとき、書くという営みのなんともいえない奇妙さが浮かび上がる。そして寿永記は、平家の滅亡は歴史の必然であり、覚丹はいつか平家を捨てて出てゆくことか書かれていることがわかる場面が一番辛かった。
最後の手記は、戦で腕を負傷して書けなくなった主人公にかわり、部下が代筆した部分だ。部下はごく短い感想を主人公の手記につけくわえるのだった。それはなんてことない拙い風景描写なのだが、すごく物語が終わった感じがするラストシーンだった。 主人公の死の客観描写とか、独白とか、単に手記の中断ではなく、代筆する者の主観に継がれていくことで、書くことの形式美に到達する。
ちなみに文庫版解説によれば、作者はこの作品を説得力あるものにするため、わざわざ10年くらいかけて執筆していたらしい。つまり小説家井伏鱒二の文体の変遷というまた別の歴史が介在するという、まるで時間の織物のような驚きの作品。
7/389
0コメント