006:麻雀放浪記(1)青春編
戦後すぐ、東京、上野。
あたりは闇市と浮浪者ばかり。16歳の「私」は、両親には商社勤めだと嘘をついているが、実際は無職。実家に渡す金を工面したいと町をうろついていると強盗におそわれ、その強盗はかつての職場(空襲で焼けた工場)の先輩、ギャンブル好きの通称「上州虎」だった。
虎はサイコロ賭博でカモられ一文無しだった。金がないふたりはサイコロ賭博場へ向かい、私はすこし年上のギャンブラー「ドサ健」と出会う。ドサ健は若くしてハッタリとイカサマを駆使するその道のプロで、私も相当金をまきあげられる。その日以来、私は博徒の仲間入りをする。
あるときドサ健に誘われ雀荘にはいった私は麻雀の虜になる。駐留軍の軍人が集まるヤミ雀荘のママ(28歳)に私は恋し、博徒として腕を磨きながら同居する。ママは私にプロのイカサマとセックスの技術を教え込み、いたぶる。
私はママとコンビ麻雀で荒稼ぎ、実家にも金を渡せるようになったが、上州虎の一味が実家に泥棒に入り、犯人の上州虎と知り合いだった「私」は親に疑われ、そのまま家を出る。
私はママにしつこくプロポーズするが断られる。ママを攻略するには一人前の雀士になって見返すしかないと考えた私はがむしゃらに頑張り、界隈では「坊や」の名で通るまでに成長。
私は技を盗むためにイカサマの達人「出目徳」というジジイの手下になる。私と出目徳コンビは、上野で素人をカモって稼ぎまくっていたドサ健と戦い、コテンパンに負かす。ドサ健は彼女の「まゆみ」の家の権利書まで賭けてとられてしまい、一文無しになる。出目徳はまゆみの家の権利書を私にくれるが、受取らずに上州虎に渡し、私は出目徳と決別する。そしてひとりでオリジナルのイカサマ技の開発をはじめる。
後日、出目徳コンビの勝負をじっと観察していた男「女衒の達」が、私に技を習いにやってくる。達は女を水商売に流して金を稼いでいた。私は達が住み込んでいる女郎屋に居候させてもらいながら技の開発に励む。
一方、ドサ健も山谷の宿におちぶれ、出目徳への復讐に燃えて技を開発中。彼女のまゆみはキャバレーではたらいている。出目徳に挑戦するため金がほしいドサ健は、金持ちのカモをみつけ、女衒の達に元金を借りて勝負に出る。しかしその借金は、二十四時間以内に返済できなければまゆみを女郎にするというキツい条件つきだった。あとのないドサ健だが、素人相手なのにツキに見放されて勝てず、まゆみは借金のかたにとられてしまう。 しかし、上州虎がまゆみの実家の権利書を達に渡して借金を帳消しにする。
上州虎はまゆみの所有者となったが、さらに達に大勝負を申し込む。勝ったほうがまゆみも家の権利書も手に入れるという過酷な麻雀だ。虎はまゆみに命じて達の手牌を盗み見るなどイカサマをがんばるが、ブロックサインを達に見破られる。なんとか勝った達だが、ドサ健への借金が家の権利書になった形だから、一転して金がなくなりピンチに。
達はドサ健をたずね、コンビを組んで出目徳を倒そうともちかけるが断られ、ふたりは敵同士として勝負することを改めて約束する。
そのころ、私は達の世話を離れてひとりになる。ヤミ雀荘のママに会いにクラブをたずねるが、警察の摘発のあとで、もう店はなくなっていた。深い悲しみをいやすのは麻雀しかない。そして、ついに出目徳に勝てそうなイカサマを思いつく。その必殺技を適当な雀荘で試そうとしたとき、偶然そこに出目徳が現れ、麻雀勝負を申し込む。ドサ健、達、出目徳、坊や(私)の決戦が行われることに。
四人の玄人の勝負は、はなからルール遵守の意識などなく、技巧をこらしまくったイカサマの読み合いになる。ドサ健はまゆみに相手の手牌を覗かせてブロックサインで盗んだりする。ジジイで体力のない出目徳はヒロポンを打ちながらがんばる。四人は死力をつくし不眠不休で二日も打ち続け、出目徳が圧倒的な強さを見せるが、最強の役をつくったところで薬物の発作が起こり、試合中に死んでしまう。
そこで勝負が終わるかと思いきや、残った三人はなんと死んだ出目徳を裸にし、出目徳の財産をめぐって三人麻雀を死体の横で続行。まさに死闘。
三日目の明け方、三人は出目徳の実家に死体を運び、家の前に届けた。そして、、、また狂った麻雀を続けるために戻っていくのだった。
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青春小説の傑作とされているが、これをよむまで「青春」というものがよくわからなかった。というかいまもよくわからないのだが、すくなくとも「小説」における青春の形式はわかった。
青春とは、自立と承認を渇望し、歪んだ形でそれが実現されるということなのだ。
「坊や哲」は、立派な息子を演じようとした結果、親の信頼を失う。男としての承認を得るための「ほかの男の女」であるママとのもどかしい距離が、詰める直前でみうしなう。
この小説では「父親」が非常に影薄く配置されているが、父との対決は「出目徳」との奇妙な師弟関係と死別によって過剰に描かれつくされているだろう。しかし形式的な父殺しや超克ではない。出目徳は薬物によって半ば自死するのであり、役が完成する瞬間に逝ってしまうその静寂にはどこか啓示のような美しさがある。だからこれは出目徳の勝ち逃げなのかもしれない。この歪み。
そして出目徳を父とするならば、私と「ドサ健」と「女衒の達」は兄弟に似る。作中にある「友とも味方とも敵とも違う関係 」とは、家族のことかもしれない。
では、なぜ彼らは家族になれるのか。登場人物たちの背景に共有している血縁ににた宿命とはなんなのか。
むろん、麻雀という儀式・遊戯への没入だ。運とイカサマと駆け引きがかわされつづける雀卓は聖域にも似ている。が、もうひとつある。
戦争だ。(戦争の喪失だ。)
この小説で、自分は戦後とは何なのかがよくわかったと思う。苦しみと痛みと、欲望と、なんだかはっきりしない希望がある。
浮浪者部落が「瘡蓋のように広がる」日本で、私はギャンブラーの「贅肉のない仕草」にみとれ、賭博は「女より強烈な存在」だと感じる。
達は借金のカタにされたまゆみを見て「やっぱり女ってのは、生きるか死ぬかの瀬戸際にいつも置いておかなくちゃならねえんだな」と悟る。
ドサ健はこう言う。「てめえは、家付き食つき保険つきの一生を人生だと思っていやがるんだろうが、その保険のおかげで、この世が手前のものか他人のものか、この女が自分の女か他人の女か、すべてはっきりしなくなってるんだろう。」
これらの強烈な言葉に実は根拠などない。大分酔ってもいる。
でも正当だ。内容はもうどうでもいい。
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